全国各地で、戦国大名が群雄割拠した戦乱の時代。応仁元年(1467)から永禄11年(1568)の約100年の間。
応仁の乱(1467〜1477年)で東軍と西軍に分かれて戦った諸国の守護大名は力を失い、京都は戦乱のため荒れ果て、室町幕府の権力は失墜する。その中で、伝統的権威・価値体系を否定し下位の者が上位の者を力によって掌握し権力を奪い取る下克上が頻繁に起こる。幕府権力を背景にした守護大名は次々に倒され、実力によって新しい支配体制を築いた各地の戦国大名が領土を広げるため勢力を争った。威風の姿形を好み、並外れて華美な風体をしたり、常識を逸脱した異様な振舞い・言動で人を驚かすことを愛する破天荒な者たちのこと。命がけで遊び、富や権力に流されず自分の信念を立て通す男であり、また、茶道や和歌など高度な文化的素養があり、きらびやかに生き、一抹の悲しさを残して速やかに死ぬ「滅びの美学」を追求する美意識の持ち主であったといわれる。「かぶき者」「傾き者」とも書き、ほかに「傾く」という動詞や「傾いた」という形容詞もある。
武功を成した者にしか許されなかった朱柄の大槍。とりわけ槍の腕前が素晴らしかった前田慶次が揮ったとされる平三角造直槍(ひらさんかくづくりすぐやり)は、穂先から柄末端までの長さが313センチもある大身の槍で、慶次がどれほどの腕前であったのか窺い知ることができる。また、十文字の形をした錆漆塗りの鞘や、柄には螺鈿が散りばめられており、傾奇者前田慶次を感じられる。上杉軍と最上軍が戦った長谷堂の合戦では、この槍を揮い奮闘したと伝わる。
主君・主家の命により、敵国の情報を得るため諜報活動を行う者・組織。主に戦国時代に活躍した伊賀・甲賀が特に有名だが、その存在は全国各地にみられ、古くは聖徳太子の時代から、密偵・謀略・後方攪乱・暗殺など、影となり暗躍していたといわれる。忍びが本格的に歴史の裏舞台に関わるようになったのは戦国時代からだとされ、戦国大名たちは、領土を広げ天下を手中にするため忍びを育成し、各国の情報を収集していた。しかし、隠密活動ゆえに、その実態はあまり明らかになっていない。本作で登場する四井主馬が加賀藩偸組の忍びであったとする文献もあるが、根拠は不明である。
関白になった豊臣秀吉が1587年(天正15)、現在の京都府京都市上京区に造営した華麗壮大な城郭風の邸宅。周囲に堀を巡らせた平城(ひらじろ)形式の城郭で、北の丸・西の丸・南二の丸などの曲輪(くるわ)があり、広さは東西600メートル、南北700メートルであったとされる。その後、1591年(天正19)12月に、秀吉は甥の豊臣秀次に関白職と聚楽第を譲るが、1595年(文禄4)秀次を謀反の疑いで追放・切腹させ、聚楽第も破却した。聚楽第からの移築を伝承とする建物は多いが、現在のところ聚楽第の遺構と確認された建物はない。