ナポレオンとは?

ナポレオンが訪れた7箇所の国や島での出来事を紹介し、ナポレオンの人生を辿ります。
※番号をクリックすると解説が表示されます。

  • 1.コシルカ島
  • 2.フランス
  • 3.エジプト
  • 4.スペイン
  • 5.ロシア
  • 6.ローマ
  • 7.セントヘレナ島

【1.コルシカ島】ナポレオン・ボナパルトは、1769年、地中海西部にあるコルシカ島の下級貴族の家に生まれました。その頃コルシカ島では14世紀以降続いていたイタリアのジェノバによる支配に対する独立運動が起こっていましたが、結果的にはフランス領となり、ナポレオンの父はフランスに帰順。ナポレオンは1784年にパリの陸軍士官学校へ進学します。

【2.フランス】1789年にフランス革命が勃発し、ナポレオンはフランス革命軍に参加します。ロベスピエール派を失脚させたテルミドールのクーデター(1794年)では一時投獄されるも釈放。1796年にはジョセフィーヌと結婚しイタリア遠征の総司令官に抜擢されます。この遠征ではオーストリア軍を相手に1年間の連戦の間にイタリア各地で勝利を収め、フランスはイオニア諸島とネーデルラントなどを得ました。

【3.エジプト】1798年、ナポレオンはイギリスとイギリス植民地インドの航路を絶つためオスマン帝国領エジプトへ遠征します。陸上では勝利したものの、海上ではネルソン提督率いるイギリス海軍に惨敗。1799年にはイギリス・オーストリア・ロシアの3カ国が第2回対仏大同盟を結成したため、ナポレオンはフランス本国に帰還し、ブリュメール18日のクーデターで総裁政府を打倒し統領政府をつくり、フランス革命を終結させます。

【4.スペイン】権力を掌握したナポレオンはアルプスを越えて北イタリアへ侵攻し、オーストリアに勝利。1804年、皇帝ナポレオン1世として即位します。1805年、第3回対仏大同盟が結ばれると、ナポレオンはイギリス本土への侵攻を計画しますが、スペインのトラファルガー岬沖で行われたトラファルガーの海戦で再びネルソン提督に敗北し断念します。そして1810年にはジョセフィーヌと離婚し、オーストリア皇帝フランツ1世の娘マリ・ルイーズと再婚します。

【5.ロシア】ナポレオンは現在のチェコ東部に位置するアウステルリッツでの戦いで、ロシア・オーストリア両軍を破り、第3回対仏大同盟は崩壊。南西ドイツ諸国から成るライン同盟を結成し、神聖ローマ帝国を消滅させます。1812年にはロシア遠征を行いモスクワを占領するも、ロシアの焦土作戦により現地での物資調達を絶たれて撤退。帰路にロシア軍の攻撃に遭い大敗し、イギリス・ロシア・プロイセン・オーストリア・スウェーデンによる第4回対仏大同盟により各地で解放戦争が行われました。

【6.エルバ島】1813年、フランス軍は現在のドイツ東部に位置するライプツィヒでの戦いで、オーストリア・プロイセン・ロシアの連合軍に大敗。ナポレオンは退位し、イタリア北西岸のエルバ島に幽閉されます。しかし、その後ナポレオン戦争の戦後処理を目的としたウィーン会議では各国の利害対立から話がまとまらず、ナポレオンはエルバ島を脱出しパリに戻り、皇帝に復位します。

【7.セントヘレナ島】ナポレオンの復位によりイギリス・プロイセン・オランダの軍が結成され、1815年のワーテルローの戦いでナポレオンは破れました。再起を図るものの議会に反対され、退位を余儀なくされました。その後イギリス艦によりアフリカ西部の孤島、セントヘレナ島に幽閉され、1821年にこの島で51年間の生涯を終えました。