公(朝廷)と武(幕府)とが一体となって内外の政局に対処しようとした政治構想。 1860年の桜田門外の変で、大老 井伊直弼が暗殺された後、老中 安藤信正ら幕府側より提起され、孝明天皇の異母妹 和宮の、将軍徳川家茂への降嫁案で具体化しました。
尊王攘夷派の薩摩藩士が、関白・九条尚忠と、京都所司代・酒井忠義の殺害を企て、京都伏見の船宿寺田屋に結集したところを、薩摩藩主である島津茂久の父、島津久光が家臣を遣わせて襲い、殺害した事件。
武蔵国生麦村で島津久光の行列を乱したイギリス人4人を薩摩藩士が殺傷した事件。イギリスは幕府・薩摩藩に犯人引き渡しと賠償金を要求し、幕府はこれに応じましたが、薩摩藩は拒否し、薩英戦争の原因となりました。
7月、鹿児島で行われた薩摩藩とイギリス艦隊との戦闘。 双方とも損害が大きく、同年 11 月横浜で和議が成立しました。以後、薩英の提携が進みました。
8月18日、公武合体派が尊皇攘夷過激派を追放したクーデター。 前年から長州藩を中心とした攘夷派勢力の活動が活発となり、攘夷派は、倒幕・王政復古を一挙に実現しようと計画していました。 画策に危機感を抱いた薩摩藩・会津藩を中心とする公武合体派が、長州藩と急進派公卿を一挙に朝廷から追放しました。この前後、政局の中心となった京都はしばらくの間、幕府側ないし公武合体派の握るところとなりました。
6月、京都・三条河原町の旅宿池田屋に集まった約30名の尊攘派志士を、近藤勇以下約30名の新撰組隊士が、京都守護職や所司代の応援を得て襲撃した事件で、尊攘派志士に多くの被害を出しました。
前年の八月一八日の政変で京都を追われた長州藩が、7月に形勢挽回のため京都に兵を進めましたが、会津・薩摩藩などの幕府側諸藩兵と蛤御門付近で交戦して敗れました。
蛤御門の変によって長州藩追討の名目を得た幕府は、尊攘派に打撃を与える意図もあって、長州藩に兵を送りました。 尊攘派にかわって保守俗論派が政権を握っていた長州藩は、抗戦せずに幕府に降伏しました。 その後、1865年になると、長州藩では、反乱により、高杉晋作らの討幕派が実権を握りました。 大村益次郎を登用して軍制改革を実行しました。銃器や艦船を購入し、装備の洋式化を図り、幕府の再征に備えました。
1月21日、京都薩摩藩邸にて、土佐藩の坂本龍馬の立会いのもと、薩摩藩代表の小松帯刀・西郷隆盛と長州藩代表の木戸孝允との間で成立した密約。この盟約は、両藩有志のみの秘密裏の約束にすぎず、具体的に幕府討滅を目的としたものでもありませんでしたが、長州藩は厳しい孤立から脱却するきっかけをつかみ、同年の長州再征で幕府を破り、両藩は倒幕の中心勢力となっていきました。
薩長同盟が成立した直後の1月23日、 坂本龍馬は伏見寺田屋で幕吏の襲撃を受けましたが、寺田屋の養女お龍の機転で危うく難を免れました。
大島口での戦闘を手始めに、芸州口、石州口、小倉口と、いわゆる四境で幕府軍と長州軍の戦闘が開始されました。 結果は幕府軍の敗走に終わり、以降、幕府はその権威を失墜し大政奉還へと向かいました。
10月3日、土佐藩参政・後藤象二郎は、幕府の若年寄格・永井尚志と連絡をとり、前藩主の山内豊信の名で、大政奉還建白書を老中・板倉勝静を通して将軍に提出しました。 これは、坂本龍馬が、後藤に示した新しい国家体制の要項、「船中八策」の発想に基づくものでした。 ついで、芸州藩も建白書を提出し、これを受けた徳川慶喜は14日、大政奉還の上表文を出し、朝廷が翌15日それを受け入れました。 これにより、鎌倉幕府以来約700年続いてきた武家政治は終わりました。