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演出家・植田景子による見どころ紹介

■公演の題材にオペラ『アンドレア・シェニエ』を選んだ理由

シンプルで古典的なラブストーリー、そして、フランス革命期の時代設定が、お客様に宝塚の魅力を堪能して頂ける作品になるのではと感じました。そして、オペラの舞台や実在のアンドレ・シェニエ※について調べるう
ち、非常に奥深いテーマを含有したこの題材に引き込まれていきました。
“不安定な社会の中でいかに生きるか?”“愛こそ希望”という想いが伝えられる作品になればと思います。
※“アンドレア”はイタリアオペラでの役名、フランス語読みの実名は“アンドレ・シェニエ”。

■主要人物3人の役柄をキーワードで表すと?

を求めるマッダレーナ(蘭乃はな)。
革命に燃えるジェラール(明日海りお)。
に生きるアンドレア・シェニエ(蘭寿とむ)。
フランス大革命という激動の時代、その中で、真実の、人間の平等、そして魂の自由を追求する
三人の物語。

■振付として参加するハンブルクバレエ団・大石裕香さんについて

彼女と共に創作活動が出来ること、心から嬉しく楽しみにしています。
今回、海外からの振付家にお願いするのは、話題性や目新しさの為ではなく、彼女の才能や人間性をよく知った上で、彼女なら、私の作品を理解し共同作業の出来る人だと信じられるからです。
ハンブルクバレエのダンサーの方たちは、皆さん、感情表現に優れているので、宝塚の生徒にとっても、様々な事を発見出来る機会になればと思います。

■公演に向けた抱負と皆様へのメッセージ

宝塚から発信するオリジナルミュージカルとして、その可能性が感じられる作品をというのが目標です。世界的にミュージカル低迷期が続く中、100年近くオリジナル作品を生み出して来た宝塚歌劇こそ、宝塚発の新作を創り続け、そのクオリティを守ることが大切だと感じます。スタッフの力を結集し、花組の生徒一人一人の魅力や能力が輝く舞台をお届け出来るよう…皆様、是非、見にいらして下さい!

植田景子
植田景子
1994年、宝塚歌劇団入団。1998年、宝塚バウホール公演で劇団初の女性演出家として
デビュー。
2000年、『−夢と孤独の果てに−ルートヴィヒU世』で大劇場公演デビュー。研ぎ澄まされた感性で、宝塚歌劇ならではの美しい世界観に満ちた創作に定評がある。
2011年『クラシコ・イタリアーノ』では、平成23年度文化庁芸術祭優秀賞を受賞した。

振付 大石裕香(ハンブルクバレエ団)
写真
「RENKU」 ©Dr.Joachim Flügel
ハンブルクバレエ団ソリスト
1984年4月大阪生まれ。3才よりバレエを始める。1990年より大屋政子バレエ研究所に所属。
2000年ハンブルクバレエ学校シアタークラスに留学。同バレエ団の研修生を経て、2003年ハンブルクバレエ団の正式団員となり、2010年に日本人女性としては初めてハンブルクバレエ団のソリストに昇進。
2011年に、ハンブルク州立オペラ座のディレクターから将来有望な人材に与えられる「オーバードルファー賞」を受賞。
2012年、オーカン・ダン氏との共作による振付作品「RENKU」が高い評価を得て、ハンブルクにある全てのシアター、プロダクションから選出された優秀な作品に与えられる「ロルフ・マーレス賞」を受賞。ダンサーとして、振付家として、ハンブルクバレエ団の貴重な人材の一人として活躍中。

ハンブルクバレエ団

「椿姫」「ニジンスキー」「人魚姫」など多くの代表作を創作し、現代バレエ界で巨匠と言われているアメリカ出身の振付家ジョン・ノイマイヤー氏が芸術監督を務める世界最高峰のバレエ団。伝統的なバレエのスタイルに、現代の様々な要素を融合させ、深い感情表現と高い音楽性による独自のカラーが、世界中の観客から高い支持を受けている。日本公演をこれまでに6回行っている。


大石裕香さんより皆様へのメッセージ
この度、植田景子先生の演出のもとで、宝塚歌劇団花組、そしてスタッフの皆様と一から創造する舞台芸術に携わらせていただける事、本当に幸せに感じております。
「アンドレア・シェニエ」に命を吹き込み、彼の魂がまた再び蘇るような作品になりますよう、花組の皆さんからのインスピレーションを受け、それぞれの役や一人一人の個性を活かしながら、個々が内に秘めた感情や思いを身体の動きを通してお客様に伝え、同じ空間や時間を共有出来たらと思います。
私自身も舞台人として宝塚歌劇団の皆様方から沢山の事を学ばせて頂きながら、未知の世界を一緒に築いてゆける事を心から楽しみにしています。 舞台がそれぞれの魅力溢れる花々で咲き乱れますように!

革命詩人「アンドレ・シェニエ」とは?

主人公として描かれる、実在の革命詩人「アンドレ・シェニエ」についてご紹介いたします。
※“アンドレア”はイタリアオペラでの役名、フランス語読みの実名は“アンドレ・シェニエ”。
アンドレ・シェニエ誕生

18世紀のフランスを代表する詩人の一人であるアンドレ・シェニエは、1762年にコンスタンティノープル(現イスタンブール)で生まれました。
フランス人外交官の父と、ギリシア人の母の間に生まれたシェニエは5歳のころに父の故国であるフランスに戻り、そこで青年期を過ごしています。
パリのナヴァール学院で学び、軍隊生活を送った後に旅したスイス・イタリアでの経験を通して、シェニエは見聞を広げています。
その後、1787〜90年にはロンドンのフランス大使館に勤務していました。

フランス革命への参加

絶対王政への不満が爆発した市民たちによる、バスティーユ牢獄への襲撃から始まったフランス革命は、封建的特権の廃棄、人権宣言へと発展していきました。
ロンドンから帰国したシェニエは、「自由」「平等」「博愛」の実現を目指すという革命の理念に共感し、穏健派の一員として革命に参加するようになります。シェニエが革命に身を投じたのは彼が28歳の時でした。
以降、処刑されるまでの約4年間、シェニエは革命の精神を持ち続けるのです。

ジャコバン派との対立

国民公会によって共和制が宣言され、国王ルイ16世が処刑された後のフランス国内では、ロベスピエールらを指導者とするジャコバン派が独裁的権力を握り、反対派を弾圧する恐怖政治を敷きました。
これに対し、シェニエは反ジャコバン派の論客として、革命の本来の理想を説き、ジャコバン派を名指しで公然と非難したことによりサン・ラザール牢獄へ収監されてしまいます。

アンドレ・シェニエの最期

シェニエは4ヶ月の牢獄生活の末に、32歳の若さで断頭台の露と消えます。
シェニエが処刑された背景には、反革命運動抑圧のために設置された革命裁判所の存在がありました。
革命裁判所の設置により、裁判は簡略化され、革命の推進を少しでも妨げる可能性があるとされた者は次々に断頭台へと送り込まれたのでした。
シェニエが処刑された直後の1794年7月27日にテルミドールの反乱が起こります。このクーデターでジャコバン派は瓦解し、ロベスピエールらの処刑をもって、シェニエが命をかけて対抗した約2年間に及ぶ恐怖政治は終わりを告げたのでした。

詩人として

シェニエは生前、ほとんど詩の発表をしておらず、詩人としては無名に近い存在でした。
彼の詩作の全容が明らかになるのは19世紀になってからだったのです。
代表作には「若き囚われの女」といった短詩形式の哀歌、抒情詩や、ホメロスを歌った「盲人」、形而上詩「ヘルメス」などの長編詩があります。また、革命の理想を持ち続けた詩人としてシェニエが獄中で書いた「風刺詩」には恐怖政治に対する絶望が綴られています。
シェニエの詩は古代ギリシアの影響を色濃く受けており、後に台頭してくるロマン派詩人たちの先駆者として名を残しています。

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