赤十字思想誕生150周年
宝塚ミュージカル・ロマン
『ソルフェリーノの夜明け』−アンリー・デュナンの生涯−
作・演出/植田紳爾
後援/日本赤十字社
[解 説]
現在、世界の186の国と地域に広がる“赤十字”の存在を知らない人はいないでしょう。その人道的活動団体・赤十字は、スイス人実業家アンリー・デュナンが、1859年6月、イタリア統一戦争の激戦地ソルフェリーノにおける傷病者の悲惨なありさまをみて、「苦しんでいる人は敵味方の区別なく救わなければならない」と提唱し、創設したものです。1864年、スイス等の16カ国がジュネーブ条約に調印。晩年(1901年)、アンリー・デュナンは世界平和に対する大きな貢献が認められ、第一回ノーベル平和賞を受賞します。情熱的で人間愛に満ちたアンリー・デュナンの波乱に満ちた生涯を通して、国籍、人種、宗教などにかかわらず、人の命や尊厳を守り、人々が平和に暮らしていくことの大切さを描いた作品です。
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この生命は人の光なり 光は闇を照り 闇はこれを悟らす(聖書)
長年のオーストリアの圧政から独立を試みるイタリアと同盟国フランスとの連合国とオーストリアの間で第2次イタリア独立戦争が勃発、最後のソルフェリーノの決戦に挑んでいた。
1859年。イタリア・ロンバルディア地方ソルフェリーノ。両軍共に死力を尽くし、ソルフェリーノの荒野は累々と負傷者が横たわっていた。
小さな田舎町のサン・ニコラ教会。
急拵えの野戦病院となっていて、戦死者や負傷者が次々と運ばれていた。数少ない医師たち。その数少ない医師の中にジャン・エクトールや、看護婦のアンリエットがいた。そしてイタリア師団長マンフレッド・ファンティや参謀長アンドレ・ポルリノの指揮の下に連合軍を必死で看病していた。運ばれてくる負傷者も入り口で選別され、教会に入れる者と野晒しの広場に寝かされる者とに分けられていた。それは、フランス軍やイタリア軍の連合軍とオーストリア軍の相違だった。敵軍は治療の必要もないと、粗末に扱われていたのだ。傷の痛さに呻く者、水を求める者、それは一刻の猶予もなく危急を要していた。
その有り様に立ち塞がったのがアンリー・デュナンだった。彼はジュネーブからパリに行く途中に偶然通りかかったのである。
デュナン『兵士たちである前に同じ人間です!尊い生命を助けなくては!』
ファンティ『敵軍など治療の必要はない!』
アンリエット『そうです!私の両親はオーストリア軍に殺されました。』
ポルリノ『通りかかりの者が一人前の口を利くな!』
ファンティやポルリノやアンリエットは、デュナンの意見に耳を貸そうとはしなかった。反対ばかりの周囲の情勢に悩むデュナン。しかし、デュナンの意見に賛成したのが医師のエクトールだった。敵味方の別け隔てなく傷病者の手当に手を貸してくれた。しかし、アンリエットの受けた傷は癒えることなくデュナンの犠牲的な精神にも冷たく眺めているだけで一向に心を開こうとはしなかった。蔭で優しく支えるエクトール。そこにはアンリエットへの深い思いが込められていた。また、傷ついても敵と味方には大きな壁があり、命の危険に晒されているときでも敵と味方は二つのグループに別れて決して協調しようとはせず、毎日のように事件は起こった。対立するデュナンやエクトールとポルリノとアンリエット。
『人間は争うことしか出来ないのか!歴史はそれを繰り返している。いつになったら争いの愚かさが分かる時が来るのだ!』理想は理想として現実には越えられない壁のあることに悩むデュナン。
そんな月夜のある日。捕虜のオーストリア少年兵ポポリーノの親を思い、故郷を思う“アベマリア”のハーモニカの音色が野戦病院の庭に流れた。
ショー・グランデ
『Carnevale(カルネヴァーレ) 睡夢(すいむ)』−水面に浮かぶ風景−
作・演出/稲葉太地
[解 説]
10日間に亙って繰り広げられる、水の都ヴェネツィアのカルネヴァーレ(謝肉祭)は、人々が仮装や仮面で本来の姿を隠し、豪奢に繰り広げられるクラシカルな祭りとして世界的に知られています。そのカルネヴァーレをテーマに、誰もが待ち焦がれ、心躍らせ、そして過ぎていくと一抹の淋しさを感じずにはいられない祭りの持つ性を劇場空間に表現したショー作品です。この作品は稲葉太地の宝塚大劇場デビュー作となります。