THE HISTORY OF RYOMA 竜馬名言集 竜馬の歩み トップへ
現代語訳:高知県立坂本龍馬記念館

此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人とあり、ことの外かはいがられ候て、先きやくぶんのよふなものになり申候。(文久3年5月17日)
達人の見るまなこハおそろしきものとや、つれづれニもこれあり。猶エヘンエヘン(同)
最近は日本で一番の軍学者勝麟太郎(海舟)という大先生の門人になり、特別にかわいがられて、まあお客様のような扱いを受けるようになりました。
(私に目をかけてくれる勝先生のような)達人の見る目は大したものだとか、「徒然草」にも書いてあります。なおエヘンエヘン。
勝海舟の門下生として責任のある立場になったことを自慢し、後半には「エヘン」という言葉も登場しますので、「エヘンの手紙」として有名です。
龍馬はこの前日、勝の使者として、神戸の海軍塾建設の資金五千両を借用するという大役を与えられ福井へ出発します。その喜びが「エヘン」という言葉に率直に表わされています。

日本を今一度せんたくいたし申候事ニいたすべくとの神願ニて候。(文久3年6月29日)
この日本をもう一度洗濯しようということを神様にお願いしたい気持ちです。
前日の六月二十八日、「天下を動かす仕事をするにはチャンスを待て」という、人生哲学に触れた手紙を出した龍馬は、引き続き姉乙女あてに、長文の手紙を書きました。
また、年表によれば、この手紙を書いた日に龍馬は「京都の福井藩邸に村田巳三郎を訪ね、勝海舟からのお礼の品を渡し幕政改革を論じた」とありますので、その勢いが「日本の洗濯」の言葉になったと思います。

天下に事をなすものハねぶともよくよくはれずてハ、はりへハうみをつけもふさず候。
(元治元年6月28日)
大きい仕事をする者は、時期を見てやることだ。ねぶと(腫れ物)も十分腫れるまで待たないと、膿を出そうと思って刺した針に膿は着いてきませんよ。
文久三年六月二十九日乙女あての手紙から約一年後の手紙。
この手紙は、龍馬の哲学を分かりやすく乙女に説明したものですが、「目的を立て、準備しながら時期を待ち、チャンスを逃さぬ」という真理は、今の時代にも大切な事です。龍馬の業績はすべてこのパターンで展開されていますが、商業活動の原則を受け継いだ家系の影響が見られます。

右女ハまことにおもしろき女ニて月琴おひき申候(慶応元年9月9日)
今言った女は誠に面白い女で月琴を弾きます。
姉乙女に、最愛の人お龍を紹介した手紙です。
龍馬は「まことにおもしろき女」だと評していますが、かなりの好意を寄せていることが読み取れます。
何とか乙女姉さんにお龍を気に入ってもらいたいという気持ちが表れています。龍馬と乙女の関係がよく分かり面白いものです。

人誰か父母の国を思ハざらんや。然ニ忍で之を顧ざるハ、情の為に道に乖り宿志の蹉躓(さち)を
恐るるなり。(慶応2年11月)
人は誰も父母の国を思わない人がいましょうか。それなのに忍んで故郷を顧みないのは、情けのために道から外れ、昔からの志がつまずいてしまうことを恐れるからです。
この書簡は、溝渕に脱藩後の心境を尋ねられ、その回答として認めたものの下書きです。それを同年十二月四日に、家族へ出した書簡に添えたと考えられます。
この書簡の文章は名文であるため、山内家宝物資料館の元館長である山田一郎氏は、海援隊書記官の長岡謙吉がかかわっているのではないかと指摘しています。当時龍馬は倒幕の勢力に土佐藩が必要だと考えており、この書簡が土佐藩上士にまで届くことを意識し、長岡と相談しながら作成したものではないでしょうか。

小弟ハエゾに渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出ニ候間、何卒一人でなりともやり付申べくと存居申候(慶応3年3月6日)
私は蝦夷(北海道)に渡ろうとしていた頃より、新しい国を開くことは以前からずっと思っていたことで、一生を賭ける思いです。
長府藩士印藤聿(のぶる)に宛てた手紙で、北海道開拓や竹島開拓についての相談をしています。長い手紙で分かりにくいだろうからと十段に分けて書いています。第四段にある北海道開拓については、「一人になっても必ずやり遂げるのだ」と強い意志を持って臨んでいたことが分かります。暗殺されたために果たせなかったこの龍馬の夢を、後に子孫が北海道に渡ってかなえることになりました。
 

今日もいそがしき故、薩州屋敷へ参りかけ、朝六ツ時頃より此ふみしたためました。当時私ハ京都河原町一丁下ル車道酢屋に宿申候。(慶応3年6月24日)
今日も忙しいので薩摩屋敷へいく前、午前六時頃から、この手紙を書きました。
この手紙は、九日前の慶応三年六月十五日、これからの日本の姿を描いた「船中策」を後藤象二郎らとまとめあげ、ほっとし、さあこれから「大政奉還」へ動き出そうとする時期に書かれたものです。
ところで、多忙になった龍馬は、このあと乙女には手紙を書いていません。つまり、全長五メートルに近いこの手紙が「乙女姉あて最終便」となったのです。
 

人間と云うものハ世の中のかきがらの中二すんでおるものであるわい、おかしおかし。
(慶応3年4月初旬)
人間は世のなかの牡蠣がらの中に住んでいるものですなあ。おかしいおかしい。(狭い世界で、広い視野もなく生きていることを皮肉っている)
龍馬お得意の例え話を引用した人生論を展開した手紙です。
この例え話は、先月に脱藩の罪が許され、海援隊隊長に任命されたことを指したものではないかと想像します。妙な岩にかなぐり上がって四方を見渡してみると、世の中というのは牡蠣殻ばかりで、多くの人はその中に住んでいると評しています。つまり、狭い世界で、狭い視野しかもたない人ばかりだ、と言いたかったのだと思います。政敵である土佐藩参政・後藤象次郎と手を結んだことを批判する人が多く、そのことが関係しているのではないでしょうか。

私しが土佐に帰りたりときくと、幕史(えどやく)がお恐れぞ、はやきおもみ申候。四方の浪人らがたずねてきて、どふもおかしい。(慶応3年4月7日)
私(の脱藩が許されて)土佐に戻ったと聞いて、幕府の人は大変驚き、もう気をもんでいるそうです。あちこちから浪人たちが訪ねて来るので、どうもおかしい。
慶応三年四月に入ると、後藤象二郎の計らいもあって薩摩の組織であった「亀山社中」が土佐藩に関係する組織「海援隊」に生まれ変わり、龍馬も脱藩を許されて隊長になります。その大きな喜びを姉の乙女に綴った。

やがて方向を定め、シユラか極楽かにお供申すべく存じ奉り候(慶応3年11月11日)
やがて自分も考えをまとめ、修羅となるか極楽となるか分かりませんが、新しい事態に、あなたと一緒に取り組んでいきたいと思います。
この手紙は、龍馬が暗殺される四日前に書かれたものです。
この前日の十日、念願の北海道開拓に使用する「大極丸」の借り上げ資金が間に合わず、計画を白紙に戻すことになったため、船長格の林謙三に手紙を書き「もっと力を出せる所があれば、海援隊を離れてもいい」と、わびを入れました。その返事として林から「海援隊に残り機会を待つ」と言って来たので龍馬は喜び、この手紙を書きました。
龍馬は、無条件で政権を朝廷に返した徳川慶喜を高く評価し、新政府に「盟主」として加わることを提案します。しかしこの「公武合体的」な考えに、「武力倒幕」を主張してきた薩摩や長州の賛成は得られず、厳しい立場に立たされました。しかし……と「共に頑張ろう」と林謙三に呼びかけています。